大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

大阪高等裁判所 昭和52年(う)1050号 判決

控訴人・被告人・原審弁護人 栗坂諭

被告人 石田修二郎

弁護人 藤巻三郎 外二名

検察官 高橋泰介 内宮光一 田淵文俊

主文

本件控訴を棄却する。

当審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人藤巻三郎、同栗坂諭、同杉田亮造作成の各控訴趣意書、弁護人栗坂諭作成の控訴趣意書訂正書ならびに昭和五二年一二月六日付及び昭和五三年六月六日付各控訴趣意補充書、弁護人杉田亮造作成の昭和五二年一二月三日付及び昭和五三年六月一日付各控訴趣意補充書に記載のとおり(ただし、弁護人栗坂諭作成の昭和五三年六月六日付控訴趣意補充書二の主張は撤回された。)であるから、これらを引用する。    これに対する当裁判所の判断は、次のとおりである。

一  藤巻弁護人の控訴趣意第一、栗坂弁護人の控訴趣意第一の一及び二について

論旨は、要するに、原判決は、被告人の司法警察員ならびに検察官に対する供述調書の全部について、違法収集証拠であるとしてその証拠能力を否定し、被告人の裁判官に対する供述調書(以下、「勾留質問調書」という。)及び消防司令補向田淳に対する供述調書謄本(以下、「消防調書」という。)を直接証拠として被告人を有罪としているが、犯罪捜査を本来の使命とする捜査機関が作成し、かつ、本件犯罪事実を立証するための本来的、基本的、枢要な証拠とされていた被告人の供述調書の証拠能力がすべて否定された以上は、すべからく無罪の言渡がなされるべきであつて、捜査機関でない者の作成した供述録取書面を採用するなどのびほお的方法で、有罪とすべきではないのに、証拠能力を欠くことの明らかな消防調書を除けば直接証拠としては勾留質問調書が存在するに過ぎない本件について、被告人を有罪とした原判決は、犯罪事実の立証に供することを本来の目的とせず、また、通常犯罪事実の立証に供せられることのない勾留質問調書における抽象的で不完全な自白の信用性を肯認し、右自白のみによつて被告人を有罪としたものというべきであつて、原判決には、憲法三八条三項及び刑事訴訟法三一九条二項違反、刑事裁判における慣行ないし条理の違反、自由心証主義の乱用、経験法則違背などの訴訟手続の法令違反がある、というのである。

そこで、案ずるに、まず、原判決が勾留質問調書を唯一の証拠として被告人を有罪としたものではないことは、記録ならびに原判決文に徴し明らかである。すなわち、原判決は、本件犯罪事実の認定に供した証拠として、所論の勾留質問調書のほか、被告人の原審公判廷における供述、原審第一七回及び第二〇回公判調書中の被告人の供述部分、消防調書、原審公判調書中証人濱田純子、同田野育利の各供述部分、証人濱田喜市の尋問調書、濱田喜市ほか一四名の司法警察職員又は検察官に対する各供述調書、司法警察員作成の捜査報告書、実況見分調書及び捜査復命書、神戸市兵庫消防署長作成の「火災原因および損害調査報告書」と題する書面の抄本を挙示しており、原判決がこれらの証拠を総合して被告人を有罪としたものであることは明白である。そして、これら原判決挙示の証拠を検討すると、勾留質問調書及び消防調書は、被告人の自白を内容とするものであつて、右各調書の証拠能力及び証明力を肯定すべきことは後記のとおりであり、その余の証拠は、本件犯行の動機、犯行前後の被告人の行動、本件出火場所、出火当時の状況などに関するものであつて、被告人の犯行を直接立証するものではないが、本件の罪体に関する事実を立証し、また、勾留質問調書及び消防調書における被告人の自白を補強するに足るものと認められるものである。したがつて、勾留質問調書を唯一の証拠とし被告人を有罪にしたとして原判決の違憲、違法をいう所論は、その前提を欠くものであつて、採用することはできない。

次に原審記録ならびに原判決によると、原裁判所は、被告人の司法警察員ならびに検察官に対する供述調書のうち、(一)昭和四八年五月一日付司法警察員に対する供述調書(検察官請求証拠目録請求番号37のもの)は、捜査官において、本件放火被疑事実について被告人を取り調べる意図で、被告人を逮捕する理由も必要もないことが明らかな住居侵入被疑事実について、右意図を秘して逮捕状の発付を受け、被告人を逮捕し本件放火被疑事実につき取り調べて作成されたものであつて、違法な別件逮捕による身柄拘束状態を利用して獲得された違法収集証拠であるとし、(二)同月九日付、一〇日付、一二日付(二通)、一五日付、一六日付及び一九日付司法警察員に対する各供述調書ならびに同月一一日及び二一日付検察官に対する各供述調書は、違法収集証拠である前記五月一日付供述調書を除けば、被告人を逮捕、勾留するだけの疎明資料が存しなかつたことの明らかな本件放火被疑事実について、被告人を逮捕し勾留中に取り調べて作成されたものであつて、違法な勾留による身柄拘束状態を利用して獲得された違法収集証拠であるとし、(三)同月二四日付司法警察員に対する供述調書は、本件公訴提起後において被告人を取り調べて作成されたものであるが、公訴の提起によつて違法な勾留が適法になるとは解しえないから、違法な勾留による身柄拘束状態を利用して獲得されたものであることには変りはなく、前同様に違法収集証拠であるとして、いずれもその証拠能力を否定し、本件放火事実について検察官が請求した被告人の司法警察員ならびに検察官に対する供述調書のすべてについて証拠調の請求を却下していることが認められる。

ところで、原裁判所が被告人の前記各供述調書の証拠能力を否定したのは、右各供述調書が、捜査官において意図的に被告人を違法な身柄拘束状態におき、かつ、その状態を利用して得た自白を内容とするものであるため、これを証拠として許容することは、適正手続の要請に反するとした趣旨と解せられるところ、適正手続の要請は、刑事裁判における基本的かつ重要な原則であるが、刑事裁判は、事案の真相の究明をも重要な任務としているのであるから、たとい被告人の捜査官に対する供述調書のすべてについて、適正手続の要請からその証拠能力を否定すべき事情があつたとしても、そのことをもつて直ちに被告人の刑事責任を問うことができないとするのは相当でなく、他に適格な証拠が存在する以上、被告人を有罪とすべきことは当然といわなければならない。本件においては、被告人の捜査官に対する供述調書を除いても、前記のとおり被告人を有罪とすべき適格な証拠が存在しており、そのうち所論の勾留質問調書は、たしかに犯罪事実の立証に供することを目的として作成されたものではないが、勾留質問調書を罪証に供することができないとする根拠はなく、また、そのような慣行の存在は認められないところであり、同調書における被告人の自白の証明力を肯認すべきことは後記のとおりである。原判決には所論の慣行ないし条理の違反、自由心証主義の乱用、経験法則違背などの訴訟手続の法令違反があるとは認められない。論旨は理由がない。

二  藤巻弁護人の控訴趣意第二の二の1、栗坂弁護人の控訴趣意第一の三について

論旨は、要するに、勾留質問調書は、違法な逮捕を前提とする勾留請求に基づき作成されたものであるところ、逮捕手続の違法は当然に勾留質問手続に承継されること、勾留質問そのものが違法な逮捕により違法に収集された疎明資料に基づき行われていること、原裁判所が本件勾留を違法であるとして取消していることなどよりすると、本件勾留質問手続は違法というべきであつて、右違法な手続に則り作成された勾留質問調書は、違法、無効であつて証拠能力を有しないのに、これを適法、有効であるとしてその証拠能力を認めた原判決には、訴訟手続の法令違反がある、というのである。

そこで、案ずるに、原審記録ならびに原審で取り調べた勾留質問調書によると、同調書は、本件放火被疑事件につき逮捕中の被告人について、昭和四八年五月四日、神戸地方検察庁検察官からなされた勾留請求に基づき、神戸地方裁判所裁判官が、同裁判所内において、被告人に対し、右被疑事実を告知して弁解を聞くなどいわゆる勾留質問をした際、立会裁判所書記官が被告人の供述内容の要旨を録取して作成した書面であつて、原審第一回公判期日において、刑事訴訟法三二六条の同意書面として取り調べられていたが、最終弁論において弁護人が右同意は過失に基づくものであると述べて証拠能力を争つたため、原裁判所は、同法三二二条一項所定の書面として証拠能力を肯認しているものであることが認められる。

ところで、所論は、右勾留質問調書につき、調書作成に先立つ逮捕が違法であることを前提にしてその証拠能力を争つているので、まず、所論が前提とする本件放火被疑事実による逮捕の適否につき案ずるに、原審記録ならびに原審で取り調べた証拠によると、本件捜査の経過は、次のとおりと認められる。すなわち

(一)昭和四八年三月一四日午前二時一三分ころ、通報により本件火災の発生を認知し、直ちに火災原因の捜査を開始した兵庫県兵庫警察署捜査官は、火災現場の状況、関係者の供述などから、出火場所を原判示のクラブホステス濱田純子の居室と断定し、当初は居住者である同女に対する失火被疑事件として捜査していたが、同女が出火の当夜に知人の前田勇と外泊していて不在であつたことが判明したことなどから、同女に対する失火の嫌疑が薄らいだため、更に聞込、内偵捜査を続行中、同女は前田勇のほかに被告人とも交際していて、多額の遊興費を使わせているらしいことの聞込を得たこと、(二)そこで、同月二二日、同女の出頭を求めて被告人との関係につき取り調べたところ、(1) 前年の深夜、前田勇を前記同女方に案内したところを被告人に目撃され、その腹いせに前田の乗つてきていた外車ムスタングのタイヤをパンクさせられたことがあつた、(2) 前年末の深夜、同女が一人で前記居室で就寝中、被告人が無断で室内まで入つてきたことがあつた、(3) 同女は被告人に三年間にわたつて七〇〇万円くらいの遊興費を使わせており、出火当夜の三月一三日にも、クラブ「月世界」の領収書を渡すという約束で現金三五万円を都合させたが、その約束を破つて、領収書を渡さず、前田勇とホテルで投宿した、(4) 本件火災後の三月一八日、被告人が同女に対し、「三五万円の領収書の受渡を約束した晩、約束を果さなかつたので、あちこち探し廻り、そのとき男と腕を組んで姉のアパートに入つたところを見たが、腹が立つて二人とも自動車でひき殺してやろうと思つた。」と話した、などの供述を得たこと、(三)同女の右供述は、前田勇の供述とも合致したので、同警察署捜査官は、あらたに被告人に対し、怨恨による放火の嫌疑を抱くに至つたが、出火当時に現場で被告人を目撃した者などもなく、右嫌疑で逮捕状を請求するに足る資料を収集できなかつたので、同女の右供述中(2) の事実、すなわち同女方への無断立入の事実を住居侵入被疑事件として立件し、右事実で被告人を逮捕して本件放火の事実を取り調べる方針を固め、同年四月二五日、同女につき住居侵入の被害調書を作成したうえ、同月二七日、被告人に対する住居侵入被疑事実の逮捕状の発付を請求し、同日その発付を得たこと、(四)そして、同年五月一日午前八時三〇分、右逮捕状により被告人を自宅で逮捕し、同日午前九時二五分、同警察署に引致したうえ、約一時間にわたつて住居侵入の事実につき取り調べて供述調書を作成したのち、本件放火に関連する事項についてポリグラフ検査を実施し、次いで、同日午後三時ころから午後五時三〇分ころまでの間、濱田純子との関係、本件火災当日のアリバイの有無などに関する取調をし、更に、夕食後の午後六時ころから午後一〇時三〇分ないし一一時ころまでの間、本件放火事実に関する取調をし、その間に被告人の自白を得たこと、(五)そこで、同日午後一〇時三〇分ないし一一時ころから翌二日午前二時三〇分ころまでの間、右自白を内容とする同年五月一日付供述調書を作成し、同月二日、右自白調書を疎明資料に供して、本件放火被疑事件の逮捕状を請求し、その発付を得たのち、同日午後零時二〇分、住居侵入被疑事件で逮捕中の被告人をいつたん釈放し、同日午後一時四〇分、前記放火被疑事件の逮捕状により同警察署内において被告人を再度逮捕したこと、(六)そして、同月四日午前一一時四五分ころ、右放火被疑事件について被告人を神戸地方検察庁検察官に送致し、同日、同検察庁検察官から神戸地方裁判所裁判官に対し勾留請求がなされ、同裁判所裁判官は、即日、勾留質問を実施し、勾留状を発付して被告人を勾留したこと、(七)その後、勾留期間が延長され、同月二三日、被告人は勾留のまま本件放火の事実につき起訴されたが、同月九日から起訴後の同月二四日までの間において、被告人を取り調べて、司法警察員が合計八通、検察官が合計二通の供述調書を作成しているほか、同月六日には、消防調書が作成されていること、以上の事実が認められる。

右認定の事実によると、本件において捜査官は、住居侵入被疑事実によつて逮捕中の被告人について、右被疑事実とは別の本件放火被疑事実の取調をしているのであるが、一般にこのような取調、すなわち、甲被疑事実について逮捕、勾留中の被疑者を、当該逮捕、勾留の基礎となつた被疑事実以外の乙被疑事実について取り調べることは、必らずしも禁止されているわけではない。しかし、甲被疑事実についての逮捕、勾留が、もつぱら、いまだ証拠の揃つていない乙被疑事実について取り調べる目的で、甲被疑事実による逮捕、勾留に名を借り、その身柄の拘束を利用して、乙被疑事実について逮捕、勾留して取り調べるのと同様の効果を得ることをねらいとしたものである場合など、憲法及び刑事訴訟法の定める令状主義を実質的に潜脱し、その精神を没却したこととなる場合には、その捜査手段は違法というべきであつて、その捜査手続によつて得られた被疑者の自白は、証拠能力を有しないものといわなければならない。

そこで、これを本件についてみると、最初の逮捕の基礎となつた被疑事実の要旨は、「被疑者は、昭和四七年一一月一四日、一五日の午前一時ごろ、神戸市兵庫区会下山町三丁目五番地ホステス濱田純子二六歳方に故なく無錠作業場出入口から奥四畳間寝室に侵入したものである。」というものであつて、右被疑事実をそれ自体としてみれば、深夜に婦女の居室に侵入したという事案であるから、必らずしも逮捕の必要性のないものでもない。しかし、被告人と居住者である濱田純子との関係、ことに被告人と同女との交際が、逮捕状請求当時において約三年、右犯行日まででも約二年六カ月の長期に及んでいたこと、しかも、その間、被告人はほとんど毎週同女の勤めるクラブに通いつめ、同女を指名するなどして費消した遊興費が七〇〇万円もの多額に及んでいるほか、七〇万円を超える金銭を贈与又は貸与したことがあり、肉体関係も二度ばかり結ばれ、深夜に同女を前記同女方に送り届けたことが何十回もあつて、同女の子供や親とも親しかつたなど親密な間柄にあつたこと、右住居に立ち入つた当夜も、たしかに同女に無断で居室内に入つているとはいうものの、その後同女と一〇分間くらい会話を交し、続いて右居室を訪れた同女の弟ともゴルフの話をして退去するなど、格別に住居の平穏を害した事実のなかつたこと、また、その日以後も同女との交際は従前と同様に継続し、前記被害調書が作成されるまでは、同女から被害の申告すらなされていないものであつたことなど、関係証拠によつて認められる事実にかんがみ事案の内容を洞察すると、右逮捕状記載の被疑事実は、犯罪の嫌疑さえも極めて薄いものとみなければならず、すくなくとも、逮捕状請求当時において、父親のもとでガソリンスタンド従業員として稼働し、その氏名、年令、住居、職業などの明らかであつた被告人を、かかる被疑事実で逮捕する必要性はなかつたものというべきである。しかるに、兵庫警察署捜査官は、右の事情のほとんど全てを知悉しながら、右被疑事実による逮捕状を請求し、その発付を得て被告人を逮捕したものと認められるのであるが、これらの事実と前記認定の本件捜査の経過とを併せ考えると、右住居侵入被疑事実による被告人の逮捕は、捜査官において、もつぱら、いまだ主観的な嫌疑にとどまり、逮捕状を得るだけの資料のなかつた本件放火の事実について被告人を取り調べて自白を得る目的で、その五か月以上も前に生起した住居無断立入に過ぎない事案を、ことさらに刑事事件として取り上げ、右住居侵入罪による逮捕に名を借り、その身柄の拘束を利用して、本件放火の事実について逮捕して取り調べるのと同様の効果を得ることをねらいとしたものであることは明らかであつて、右逮捕を含む捜査手続は違法といわなければならない。すなわち、住居侵入被疑事実による逮捕は、それ自体としてみても、逮捕の必要性のないことが明らかであるから、違法であり、また、右逮捕の実質は、犯罪の客観的な嫌疑のない本件放火の事実について、裁判官による事前の審査を回避し、裁判官が発し、かつ、理由となつている犯罪を明示する令状によらないで、被告人を逮捕したことに帰するものであつて、憲法三三条、三四条の所期する令状主義を潜脱し、その精神を没却する重大な違法のあるものといわざるをえず、捜査官において、右逮捕による身柄の拘束を利用し、本件放火の事実について被告人を取り調べたことは、必要性のない被疑者の逮捕を犯罪の客観的嫌疑のない他の事実に対する自白獲得の手段としたものであつて、とうてい容認しがたいからである。そして、被告人の身柄拘束の根拠に存する違法の程度が上記のように重大であり、かつ、それが捜査官によつて意図的に行われていることなどにかんがみると、右違法な手段による取調によつて得た自白調書を証拠として許容することは、重大な違法、捜査官の不法な意図を是認するという不合理な結果となり、適正手続の要請に反するばかりか、違法捜査を助長するおそれもあるのであつて、右自白調書の証拠能力はこれを否定するのが相当である。そうすると、前記被告人の司法警察員に対する昭和三八年五月一日付供述調書は証拠能力を有しないことになるが、本件放火被疑事件の逮捕状は、右供述調書を疎明資料に供して発付を得たものであり、右供述調書を除けば、被疑事実ことに被告人と犯人との同一性に関する疎明のなかつたことは明らかであるから、右逮捕状は被疑事実の疎明がないのに発付されたことに帰するものであつて、右逮捕状による逮捕もまた違法というべきである。

そこで、すすんで、所論につき案ずるに、右にみたように、本件放火被疑事実による逮捕は違法であるから、本件勾留は、違法な逮捕を前提としてなされたことになる。ところで、被疑者の勾留は、逮捕中の被疑者について検察官の請求に基づいて行われるのであるが、逮捕手続に重大な違法がある場合には、直ちに被疑者を釈放すべきであるから、勾留を請求することができず、このような場合に被疑者を釈放しないでした勾留請求は、違法であるとして却下を免れないものである。本件放火被疑事件の逮捕状は、前記のとおり、被疑事実の疎明なくして発付されたことに帰するものであるから、右逮捕状によつてした被告人の逮捕手続には重大な違法があることになり、本件勾留請求は、本来は却下されるべきであつたものである。したがつて、右逮捕手続の違法を看過してした本件勾留の裁判には違法があるといわざるをえない。しかし、右違法は、勾留の裁判を当然無効とするものではなく、準抗告等によつて取消されるという限度において違法であるに過ぎないうえ、そのために勾留質問の手続までが違法となると解すべきではない。

所論は、逮捕手続に違法がある場合には勾留請求権がないから、右違法を看過してなされた勾留の裁判は、勾留請求がないのに勾留の裁判をしたことに帰するものであつて、被疑者につき職権による勾留を認めていない現行法制と背馳するから、このような場合の勾留質問手続及び勾留の裁判は、すべて違法、無効と主張する趣旨のようである。

しかし、逮捕手続の違法を看過して勾留の裁判がなされた場合であつても、適式な勾留請求に基づいている以上、職権により勾留したのと同視するのは相当でない。そして、適式な勾留請求があると、勾留許否の裁判をしなければならず、そのための審査を開始せざるをえないものであるところ、右審査は、被疑事実の疎明の有無、勾留の理由及び必要性の存否に関する事項のほか、逮捕手続の適否に関する事項にも及ぶものであるから、逮捕手続に違法があるからといつて、その審査のための手続までが違法になるいわれはないといわなければならない。ことに、被疑者に対する勾留質問は、疎明資料の検討と共に、右審査のための重要な手続であつて、右質問がなされた場合に調書を作らなければならないことは、刑事訴訟規則三九条一項に明記されているところである。したがつて、右質問の結果、逮捕手続に重大な違法のあることが判明したため、勾留請求を却下する場合においても、被疑事実を告知して弁解を聞いている以上、調書は作成されなければならず、右調書は適法、有効と解すべきである。してみると、後に至り逮捕手続に存する重大な違法を看過して勾留の裁判がなされたことが判明した本件の場合においても、右裁判に際し作成された勾留質問調書が違法、無効になることはない、というべきである。本件勾留質問調書は、その作成手続に瑕疵あるものとは認められず、適法、有効のものというべきであつて、その無効を前提として証拠能力を否定する所論は採用することができない。

また、本件放火被疑事件による被告人の逮捕は違法であるから、右逮捕中になされた勾留質問において作成された勾留質問調書は、違法に身柄を拘束中の被告人の供述を録取したものであること、本件勾留質問に先立ち勾留裁判官が、別件住居侵入被疑事件につき逮捕中に作成され、その証拠能力を否定すべき被告人の司法警察員に対する供述調書を検討し、勾留質問に臨んでいることは所論のとおりと認められる。しかし、逮捕が違法であることと、その間になされた勾留質問の適否ないし勾留質問調書の証拠能力の有無とは、別個の観点から論ずべきであつて、違法に抑留拘禁中の供述であることのみを理由として、直ちにその証拠能力を否定するのは相当でなく、供述の証拠能力の有無は、あくまでも、その供述の獲得過程における違法の有無及び大小によつて決すべきである、と考える。そこで、この観点から本件勾留質問調書の証拠能力の有無を検討すると、勾留質問は、裁判官が、捜査に対する司法的抑制の見地から、被疑者に対し被疑事実を告知してその弁解を聞き、勾留の適否の判断に資することを目的として、捜査機関とは別個独立の立場で、独自の職責に基づいて行うものであつて、犯罪の捜査とはその性質を全く異にするものである。したがつて、勾留裁判官が捜査官と通謀して違法捜査に加担したなど特段の事情があればともかく、そのような事情は全くなく、適法に行われた本件勾留質問における被告人の自白には、その供述獲得の過程に違法はない、というべきである。そして、前記勾留質問の性質及び原判示のようなその実施の実情にかんがみると、勾留質問における被告人の供述が、それに先立ち捜査官に対してした供述に、たやすく影響されたものとみるのは相当でなく、また、たとえ勾留裁判官が、勾留請求の疎明資料として提出された被告人の捜査官に対する供述調書を調査検討し、証拠能力を否定すべき被告人の捜査官に対する供述内容を了知していたとしても、右調書に基づき被告人を追及尋問してその供述を得たとの事情の認められない本件においては、勾留裁判官の了知していた被告人の捜査官に対する右供述内容は、勾留質問における被告人の弁解に影響を与えていないものと認めるのが相当である。本件捜査に際しては、前記のように、いわゆる別件逮捕という違法な捜査手続がとられており、前記認定の本件捜査の経過ことに、右別件にあたる住居侵入被疑事実が犯罪の嫌疑すらも極めて乏しいものであつたことなどよりすると、本件は典型的な見込捜査のなされた事案というべきであつて、捜査手続に存する違法の程度は重大であるから、右別件逮捕中の本件に関する自白はもとより、本件につき勾留中になされた自白についても、捜査官があえて意図して違法な逮捕、勾留状態を惹起し、かつ、その状態を利用して自白を獲得したなど、その証拠収集手続に重大な違法があると認められるので、適正手続の要請、将来における違法捜査を抑制するという観点から、その証拠能力を否定するのが相当と考えられるのであるが、かかる事情の認められない勾留質問調書についてまで証拠能力を否定することは、右証拠排除の目的を越えるものであつて相当でない。

なお、原裁判所が原判決の宣告に先立ち、被告人に対する勾留を違法であるとして取り消していることは所論のとおりであるが、原裁判所は、逮捕、勾留が違法であることと、勾留質問調書の証拠能力とは、別異に考えなければならないことを前提として、勾留質問調書の証拠能力を肯定しているのであるから、原裁判所のとつた勾留取消の措置は、なんら原判決の判断と矛盾するものではない。

原判決には所論の法令違反はなく、論旨は理由がない。

三  藤巻弁護人の控訴趣意第六、栗坂弁護人の控訴趣意第一の四、杉田弁護人の控訴趣意第二点(一)、同弁護人の昭和五三年六月一日付補充控訴趣意第二について

論旨は、要するに、勾留質問における被告人の自白は、両手錠のまま強制されて警察官にした任意性に疑いのある自白を、警察官に指示されるまま繰り返し述べたに過ぎないものであつて、警察官に対する右自白と同様に任意性に疑いのあるものであるのに、その疑いがないとして証拠能力を認めた原判決には、訴訟手続の法令違反がある、というのである。

そこで、案ずるに、たしかに被告人は、原審ならびに当審公判廷において、勾留質問に先立つ昭和三八年五月一日、別件住居侵入被疑事件で逮捕中に警察官にした本件に関する自白について、両手錠をはめられ身動きしたら怒嗚られるなどして取調を受けたこと、犯行を否認したのに、取調にあたつた中島刑事から、うず高く積まれた書類を示され、「これだけ調べがついている。嘘をつくなら半年でも一年でもぶち込んでやる。」などと脅される反面、「自白をすれば直ぐ出してやる。裁判所で執行猶予の判決を貰うようにしてやる。」などと甘言をもつて誘われたため、意に反して虚偽の自白をしたこと、また、勾留質問に際しては、同刑事から「勾留だけの手続やから、昨日言つたことをチヤツ、チヤツと言つたらいい。」などと指示されていたため、勾留の意味がよくわからないまま、警察で自白したとおりを述べたことなど所論に沿う供述をしている。しかし、被告人の原審公判廷における供述中には、第一回目の自白調書は被告人が述べたとおりに警察官が書いたものである旨の、前記のような強制等がなかつたことを窺わせるような部分があること、また、被告人の取調にあたつた巡査部長中島勇が原審において、被告人の供述するような事実はなかつた旨、これを明確に否定する証言をしていることなどにかんがみると、被告人の所論に沿う供述はたやすく措信しがたいところであつて、被告人の警察官に対する自白は、その任意性に疑いはないものと認められる。したがつて、右自白の任意性に疑いのあることを前提とする所論は、採用することができない。原判決には所論の法令違反はなく、論旨は理由がない。

四  藤巻弁護人の控訴趣意第二の四の1、栗坂弁護人の控訴趣意第一の五の(二)、同弁護人の昭和五三年六月六日付補充控訴趣意について

論旨は、要するに、消防調書は、犯罪捜査の権限を有しない消防司令補の作成したものであるから、刑事訴訟法三二二条一項所定の書面にあたらないのに、同項所定の書面にあたるとして証拠能力を肯定した原判決には、訴訟手続の法令違反がある、というのである。

そこで、案ずるに、消防司令補等消防職員に犯罪捜査の権限のないことは所論のとおりである。しかし、刑事訴訟法三二二条一項は、同項により証拠能力をもちうる被告人の供述録取書面について、「被告人の供述を録取した書面」と規定するのみで、供述の相手方及び書面作成者をとくに限定しておらず、また、これを犯罪捜査の権限を有する者に限る実質的な理由もないから、被告人の供述録取書面は、供述の相手方及び作成者いかんにかかわらず、同項により証拠能力をもちうるものと解すべきである。そして、証人向田淳の原審証言及び原審で取り調べた本件消防調書によると、消防調書は、被告人が消防司令補向田淳に対してした本件放火の動機、方法等に関する供述内容を、向田淳が録取して作成した書面であつて、同調書末尾に「申述人」として被告人の署名、指印が、「作成者」として「神戸市兵庫消防署消防司令補」の肩書を付した向田淳の署名、押印のあるものであることが認められるので、刑事訴訟法三二二条一項所定の被告人の供述録取書面にあたることは明らかである。原判決には所論の法令違反はなく、論旨は理由がない。

五  藤巻弁護人の控訴趣意第二の四の2、栗坂弁護人の控訴趣意第一の五の(一)、同弁護人の昭和五三年六月六日付補充控訴趣意、杉田弁護人の控訴趣意第一点一について

論旨は、要するに、消防調書は、消防法上質問調査の権限のない消防司令補が、同法三五条の二第一項に定める期間の制限を越え、本件放火被疑事件が検察官に送致された後において、被告人に質問をして作成したものであるから、無効の調書であつて証拠能力を有しないものであるのに、これを有効であるとして証拠能力を認めた原判決には、訴訟手続の法令違反がある、というのである。

そこで、案ずるに、原審記録ならびに原審で取り調べた消防調書、証人向田淳の原審証言によると、消防調書は、被告人が本件放火事件の被疑者として警察官に逮捕され、右被疑事件が検察官に送致された後の昭和四八年五月六日、神戸市兵庫消防署の消防係をしていた消防司令補向田淳が、本件火災の原因等について調査をするため、兵庫県兵庫警察署取調室において、右被疑事件の被疑者として同警察署附属の代用監獄に勾留されていた被告人に対し、本件放火の動機、方法等について質問をした際、被告人の供述した内容が録取されているものであることが認められる。

ところで、所論は、(一)消防司令補である向田淳には消防法上の質問権限がないこと、(二)本件質問は同法所定の期間内に行われていないこと、以上の二点を論拠にして証拠能力を争つているが、(一)の点の判断をするためには、本件質問が準拠した法条を明らかにする必要があるので、それとの関連で、まず、(二)の点から判断する。

消防法三五条一項(以下条文のみを示す場合は消防法のそれを指す。)は、「放火又は失火の疑いのあるときは、その火災の原因の調査の主たる責任及び権限は、消防長又は消防署長にあるものとする。」とし、三五条の二第一項は、「消防長又は消防署長は、警察官が放火又は失火の犯罪の被疑者を逮捕し又は証拠物を押収したときは、事件が検察官に送致されるまでは、前条第一項の調査をするため、その被疑者に対し質問をし又はその証拠物につき調査をすることができる。」としている。このように、三五条の二第一項による質問又は調査は、明文によつて事件が検察官に送致されるまでの間に限られているので、事件が検察官に送致された後においては、放火又は失火の犯罪で警察官に逮捕された被疑者に対し、同項の規定により質問をすることができないことは明らかである。

しかし、他面において消防法は、三一条において、「消防長又は消防署長は、消火活動をなすとともに火災の原因並びに火災及び消火のために受けた損害の調査に着手しなければならない。」と規定し、三二条一項において、「消防長又は消防署長は、前条の規定により調査をするため必要があるときは、関係のある者に対し質問をすることができる。」と規定している。右三二条一項は、放火又は失火の疑いのある火災を含む全ての火災について、火災原因等の調査のため、広くこれらについて「関係のある者」に対し質問することができる、としたものであり、放火又は失火の犯罪の被疑者が同項にいう「関係のある者」にあたることは明らかであるところ、同項による質問権の行使には、前記三五条の二第一項の場合と異り、とくにその時期について制限が設けられていないので、放火又は失火の犯罪の被疑者で身柄を拘束されている者に対しても、三二条一項により質問をすることができるとすれば、事件が検察官に送致された後においても、このような被疑者に対し、同項による質問権を行使し得ることになり、本件質問に所論のような期間の制限を越えた違法はないことになる。

そこで、三二条一項と三五条の二第一項との関係について、当審証人大平充夫の証言を参酌して検討するに、消防法は、火災の原因ならびに火災等による損害の調査を消防機関の責務とし、消防長又は消防署長に、三二条一項において質問権を、また、三四条一項において資料提出命令権等を与えたが、放火又は失火の疑いのある火災原因の調査は、消防機関の行う原因調査として必要であるのと同時に、警察機関の行う犯罪捜査としても必要であり、両者は一つの火災原因を別の観点から究明するものであるため、犯罪捜査上取調の対象とされる被疑者又は証拠物は、消防機関の行う原因調査の面でも必要な手がかりであることが多く、両者の活動に競合が生じ、その間の調整を図る必要があるところ、消防組織法の施行により従前は警察制度の一部門であつた消防制度が警察部門から分離されたという沿革にかんがみ、三五条の二の規定を設けて、その間の調整を図つたものであることが認められる。すなわち、これによれば、三二条一項は、一般的な質問権についての規定であり、三五条の二第一項は、消防機関が原因調査として行う右質問権等の行使と警察機関の行う犯罪捜査とが競合する場合における調整規定と解するのが相当である。そして、上記の両規定の性質に加えて、三二条一項が放火又は失火の犯罪の被疑者に対する質問を除外していないこと、警察官が逮捕した被疑者に対する質問の必要性は、事件が検察官に送致されたことによつて消滅するものではなく、事件送致後においても存続すると考えられること、質問を事件送致前に限定する合理的根拠はなく、かかる限定をすることは、かえつて消防機関の行う原因調査を阻害する虞れがあることなどにかんがみると、三五条の二第一項の法意は、警察官が放火又は失火の犯罪の被疑者を逮捕した場合であつても、消防機関においてその被疑者に対し質問をすることができる旨を明らかにし、警察機関に対して消防機関の行う右質問権の行使に対する協力を義務付けたものであつて、これを事件が検察官に送致されるまでに限つたのは、検察官に対する事件送致により、事件が検察官に引き継がれ、警察官が捜査の主宰者たる地位を失うところから、警察機関と消防機関との権限調整規定としての性質上、警察官が捜査を主宰し被疑者の身柄を拘束している事件送致前に限つたに過ぎず、事件送致後において、消防機関が被疑者に対し三二条一項により質問することを許さない趣旨まで含んだものと解すべきではなく、消防長又は消防署長は、かかる被疑者に対し、事件が検察官に送致された後においても、三二条一項の一般的な質問権の行使をすることができるものと解すべきである。

本件質問は、前記認定のとおり、警察官が本件放火の被疑者として逮捕した被告人に対し、本件放火被疑事件が検察官に送致された後に行われているのであるが、事件送致後においても、三二条一項により質問をすることができるものと解すべきであるから、本件質問には所論のような期間の制限を越えた違法はない。

次に、消防法上の質問権は、消防長又は消防署長の個有の権限であるから、消防司令補であつた向田淳には質問権はなく、消防調書は無権限、無資格者が作成したもので無効である、との前記所論(一)の点につき検討する。

消防法三二条一項は、同項の質問を行う主体を「消防長又は消防署長」と規定しているが、火災等が多発する現状にかんがみると、火災原因等の調査を消防長又は消防署長がすべて自らこれを行うことは実際上不可能であつて、現実には一般の消防職員等がこれにあたる必要があること、同項による質問は、火災の効果的な予防及び警戒体制の確立などを目的とする一般的な行政調査であつて、罰則によつて相手方にその受忍を義務づけているものではないことなどに徴すると、同項は、消防機関の内部規程に基づき、消防長又は消防署長の補助機関である消防職員をして同項所定の質問権を代行して行使させることを容認しているものと解すべきである。

ところで、本件当時に施行されていた昭和二三年九月一日神戸市消防局訓令甲第二〇号「神戸市火災原因損害調査規程」(神戸市においては消防組織法九条による消防本部を消防局と称している。)によると、神戸市においては、(一)消防法第七章所定の火災の原因ならびに損害の調査の主体は、消防長又は消防署長とする、ただし、消防長の行う調査は、本部消防課長が消防長の命によりその責に任ずる(以上同規程四条)、(二)本部消防課長及び消防署長は、調査を実施するため、本部においては本部職員の中から調査員を選任し、消防署においては所属消防係の幹部もしくは署員の中から調査員を選任しなければならない(同規程五条一項)、(三)本部消防課長の選任した調査員は市内全域の調査にあたり、消防署長の選任した調査員はその管轄区域内の調査にあたるものとする(同規程五条二項)旨の内部規定が設けられていたこと、向田淳の原審ならびに当審証言、楠本龍男の当審証言によると、向田淳は、本件火災現場を管轄区域内にもつ神戸市兵庫消防署消防係所属の消防司令補で、同署運南出張所の救急隊長をしていたが、同署署長によつて前記規定による調査員として選任されており、同署消防係所属の消防司令補で本件火災の原因調査の主任調査員であつた楠本龍男の要請により岡内久明消防司令の命令で本件質問にあたつたものであること、以上の事実が認められる。そして、この事実によると、向田淳は、神戸市消防局の内部規程に基づき、消防法三二条一項による同市兵庫消防署長の質問権を、同署長の代行者として行使し、本件質問にあたつたものであることは明らかであつて、本件質問は、消防法所定の権限に基づくものと認むべきである。

原判決には所論の法令違反はなく、論旨は理由がない。

六  栗坂弁護人の控訴趣意第一の七、同弁護人の昭和五三年六月六日付補充控訴趣意、杉田弁護人の昭和五二年一二月三日付補充控訴趣意及び昭和五三年六月一日付補充控訴趣意第一について

論旨は、要するに、消防調書は、違法な勾留中に黙秘権の告知をしないで被告人に質問をして作成したものであるなど、その質問方法が違法であつて証拠能力を有しないものであるのに、その証拠能力を認めた原判決には、訴訟手続の法令違反がある、というのである。

そこで、案ずるに、被告人の勾留が違法であつたことは所論のとおりであり、捜査官が違法に勾留中の被告人を取り調べて作成した本件各供述調書について、その証拠能力を否定すべきことは、前記二の論旨に対する判断の過程で述べたとおりである。しかし、本件において、捜査官の作成した供述調書の証拠能力が否定されるのは、それが違法勾留中の被告人につき作成されたことだけを理由とするのではなく、捜査官において、あえて意図して違法な勾留状態を惹起し、かつ、その状態を利用するなど違法な捜査手続により獲得した自白であるため、その証拠能力を認めることは、適正手続の要請、将来における違法捜査の抑制の観点から相当でないとされるためである。消防機関と捜査機関とは、火災原因等の究明にあたり、相互に協力すべき関係にはあるが、消防職員が放火又は失火の犯罪の被疑者に対して行う質問は、火災の予防など消防法独自の目的で行われる行政調査であつて、犯罪捜査とはその性質を全く異にするものであるから、捜査官作成の供述調書の証拠能力が否定されたからといつて、直ちに消防調書の証拠能力までが否定されると解するのは相当でない。原審ならびに当審で取り調べた証拠によつても、本件質問に際し消防職員が、捜査官と通謀するなど違法捜査に加担したとの事跡は認めがたく、本件質問は、消防職員が上記の消防独自の立場で、本件火災原因の調査のためにしたものであることが認められるのであつて、消防職員のした本件質問を捜査官のした取調と同一視すべき事情は存在していない。本件質問は、消防法上適法に行われたものであり、また、その結果作成された消防調書については、捜査官作成の供述調書に存するような証拠排除の理由はないのであるから、違法勾留中に作成されたということだけで、その証拠能力を否定すべきではない。

また、本件質問に際し黙秘権の告知がなされなかつたことは所論のとおりと認められる。しかし、黙秘権の告知がなされなかつたからといつて、そのことだけで直ちにその供述の証拠能力を否定するのは相当でない。のみならず、消防法三二条一項による質問は、犯罪捜査の権限を有しない消防職員が、火災の原因ならびに火災等による損害の調査を目的としてする行政手続であつて、刑事責任の追及を目的とする手続ではなく、実質上もそのための資料の取得収集に直接結びつく作用を一般的に有する手続ではないから、たとえ放火又は失火の犯罪の被疑者に対して質問をする場合であつても、黙秘権を告知する必要はないものと解するのが相当である。

原判決には所論の法令違反はなく、論旨は理由がない。

七  藤巻弁護人の控訴趣意第二の四の3のロ、栗坂弁護人の控訴趣意第一の五の(三)、杉田弁護人の控訴趣意第一点の一及び二について

論旨は、要するに、消防調書における被告人の自白は、両手錠のまま強制されて警察官にした任意性のない自白を、警察官に指示されるまま繰り返し述べたに過ぎないものであるうえ、警察署内の取調室において、警察官の同席ないし監視する状況下で、黙秘権など権利保護に関する諸事項の告知を受けないで述べたものであるなど、その任意性を疑うべき事情があるのに、その疑いはないとして証拠能力を認めた原判決には、訴訟手続の法令違反がある、というのである。

そこで、案ずるに、まず、被告人の警察官に対する自白に任意性の疑いのないことは、前記三の論旨に対する判断で示したとおりであるから、右自白の任意性に疑いのあることを前提とする所論は、この点において失当である。

次に、消防調書作成の経緯及び作成時の状況等につき検討する。向田淳の原審ならびに当審証言、楠本龍男の当審証言、金井宏美の原審ならびに当審証言によると、神戸市兵庫消防署では、同署消防司令補楠本龍男が調査責任者となつて、本件火災原因等の調査にあたつていたが、昭和四八年五月五日か六日ころ、右楠本において、新聞紙上で本件放火の被疑者として被告人が逮捕されたことを知り、所轄の兵庫警察署係官に連絡して、被告人に質問することの了解をとつたうえ、消防司令補向田淳にその実施を指示したこと、そこで、向田淳は、同月六日午後一二時三〇分ころ、兵庫警察署に赴き、午後一二時四〇分から二時五分までの間、同署二階の刑事課取調室において、同署に勾留されていた被告人に対し、本件放火の動機、方法等を質問し、これに対する被告人の供述を、横書調書五頁にわたり要約記載して質問調書を作成したこと、右質問にあたり向田淳は、消防署員の制服を着用し、自己の身分及び調査の目的を明らかにしたうえ、火元である濱田純子との関係、放火の動機、方法、当日の行動等につき質問をしたところ、これに対し被告人は、返答を拒むことなく、素直に放火の事実を供述したこと、質問のため使用した取調室のドアが開放されていたため、隣接する刑事課室内で執務中の警察官の姿が見える状況ではあつたが、身柄戒護の必要上質問開始当初若干の時間警察官が在室して被告人の動静を観察していただけで、以後はその必要ないものと認めて警察官も同席しておらず、取調室内には被告人と向田淳とが居るだけであつて、質問中は手錠は施されていなかつたこと、向田淳は、本件火災に出動し、また、同僚から聞くなどして、出火場所、火災の程度等は知つていたが、警察官が作成した被告人の供述調書等の捜査書類は全くみていなかつたこと、以上の事実が認められる。被告人の原審ならびに当審公判廷における供述中、右認定に反する部分は、向田淳の前記証言等に照し措信しがたいところである。

右認定の事実によると、たしかに、本件質問は、被告人が逮捕、勾留されてのちに、警察署内で行われているが、質問時間の大部分については身柄戒護の警察官も同席せず、警察官の監視下に行われた質問と認められるような状況はなく、被告人は、向田淳が消防職員であることを明確に認識したうえで、同人の質問に応じているのであつて、被告人の供述の状況、質問調書の記載内容等をも参酌すれば、向田淳に対する被告人の供述の任意性は優に肯認し得るところである。

また、消防法三二条一項の質問に際し黙秘権の告知を必要としないことは、前記六の論旨に対して述べたとおりであつて、黙秘権を含む所論の事項の告知を欠くからといつて、直ちに右供述の任意性を失うと解するのは相当でない。

原判決には所論の法令違反はなく、論旨は理由がない。

八  杉田弁護人の控訴趣意第二点の(二)について

論旨は、要するに、勾留質問調書における自白は、抽象的であつて、現住建造物放火の罪の故意を立証するに足るものではないのに、同罪の成立を認めた原判決には、理由のくいちがいがある、というのである。

そこで、案ずるに、勾留質問調書における自白は、所論の犯意の点の自白を含むものであり、また、右自白の信用性を肯認すべきことは、後記事実誤認の論旨に対する判断に際して述べるとおりである。のみならず、所論の犯意の点は、原判決の挙示する消防調書における被告人の自白、その余の証拠によつて認められる点火場所及びその附近の状況などから優に肯認し得るところである。原判決には所論の理由のくいちがいはなく、論旨は理由がない。

九  藤巻弁護人の控訴趣意第二の二の2、四の3のイ及び第三ないし第五、栗坂弁護人の控訴趣意第一の四、六及び第二、同弁護人の昭和五二年一二月六日付補充控訴趣意、杉田弁護人の昭和五三年六月一日付補充控訴趣意第二について

論旨は、要するに、被告人は、本件放火の犯人ではないのに、これを被告人の犯行と認めた原判決には、事実の誤認がある、というのである。

そこで、案ずるに、原判決挙示の証拠によると、原判示の事実は、被告人が犯人であるとの点を含め、優にこれを肯認することができる。すなわち、これらの証拠によると、被告人は、本件犯行の約三年前から、原判示のクラブホステス濱田純子と親密な交際を続け、同女のため多額の遊興費を費消したほか、同女に金員を貸与又は贈与するなどしたこともあつたところ、本件犯行の当夜には、同女の依頼で現金三五万円を同女に都合してやつたのに、同女が約束した場所に来なかつたばかりか、同女を探し求めて同女の姉の住む清山荘附近に赴いた際、他の男と腕を組んで歩いているのを目撃し、同女の背信行為にいたく憤怒の念を抱いたこと、そこで、その腹いせに同女方に放火してうつ憤を晴らそうと決意し、同女方に赴いてその居室内のベツトの上にあつた掛布団に所携のマツチで点火してのち、同女方を退去したこと、右点火した火がベツト、床板等に順次燃え移つて、原判示の家屋を焼燬するに至つたこと等の事実を認めることができる。被告人は、原審ならびに当審公判廷において、本件犯行を否定しているが、勾留質問に際して裁判官に対し、原判示濱田純子の居室に放火した事実を認める供述をしており、また、消防職員の質問に対しては、前記認定の事実を詳細に供述しているのであつて、これら供述内容は、原判決の挙示するその余の証拠と対比し十分に措信し得るところであり、これに反する被告人の公判廷における供述は、措信しがたいところである。そして、上記認定の事実によると、本件が被告人の犯行であることは明らかというべきである。

所論は、種々の論拠を挙げて原判決に事実誤認がある旨の主張をしているが、所論にかんがみ記録及び証拠を精査し、かつ、当審における事実取調の結果を参酌検討しても、原判決に所論の事実誤認があるものとは認められない。以下、所論につき順次検討する。

(一)  勾留質問調書における自白の証明力について

所論は、勾留質問調書における自白内容は、抽象的であつて具体的に犯罪事実を述べたものではなく、ことに点火の事実を自白しただけで、建造物焼燬に関する犯意の点の自白を含むものではないなど、被告人の本件犯行を認定するに足る証明力を有するものではない、と主張している。

そこで、案ずるに、原審で取り調べた勾留質問調書によると、同調書には、「被疑事件に対する陳述」として、「事実はそのとおり間違いありませんが、布団に火をつけて直ぐ外に出たので、燃え上つたことは知りませんでした。」との被告人の供述が録取されていること、本件放火被疑事件の逮捕状及び勾留状によると、右供述に先立ち被告人に告知されたと推認できる本件放火被疑事実の内容は、「被疑者は、家業の給油所手伝いとして稼働中の者であるが、かねてから神戸市生田区下山手通一の五クラブ『月世界』のホステス勝代こと濱田純子二六歳(当時住居神戸市兵庫区会下山町三丁目五)に恋慕を抱き通いつめていたところ、昨四七年一一月ごろから冷たくあしらわれ、これに憤慨し、その恨みをはらそうと決意し、昭和四八年三月一四日午前二時ごろ、前記濱田純子方不在中に、表作業場出入口から侵入して奥四畳間寝室に至り、ベツトの上の掛布団にマツチで点火して放火し、同建物に燃えあがらせ、よつて濱田純子の現に居住している木造トタン葺平家建家屋一戸約三三平方米を焼燬させたものである。」というものであること、以上の事実が認められる。

右認定の事実によると、勾留質問調書中の被告人の供述を録取した部分は、たしかに、「事実はそのとおり間違いありません」と抽象的に記載されていて、「布団に火をつけて直ぐ外に出た」ということ以外には具体的な行為内容の記載がなされていないものであるが、右記載部分の意味内容は、告知された被疑事実と総合して判断する必要のあることは同記載に徴し明らかである。そこで、前記の本件放火の被疑事実にかんがみ右記載部分をみると、その意味内容は、布団に点火した火が燃え上つたことまではこれを見ていないので知らないが、右被疑事実記載のような動機で、同記載のような行為に及んだことはこれを認める趣旨であることが明らかであつて、右記載には所論の犯意の点の自白を含むものと認めるのが相当である。そして、右供述は、被告人が裁判官の面前で被疑事実に対する弁解として述べたものであることに徴すると、その信用性は高いものというべきであつて、勾留質問調書の信用性を認めた原判決の判断に誤りはない。

(二)  消防調書における自白の信用性について

所論は、消防調書は、被告人が逮捕されてのち警察署内で作成されたものであつて、質問の時期が著しく遅延し、また、質問の場所が適当でないこと、質問調書の記載内容が作文的で不自然であることなど、特に信用すべき状況下で作成されたものとは認めがたい事情があるうえ、同調書の記載内容には、客観的事実と符合しない点があるなど、その信用性を欠くものである、と主張している。

そこで、案ずるに、消防調書作成の経緯及び作成時の状況は、前記七の論旨に対する判断に際し認定したとおりであつて、これによれば、たしかに、本件の質問は、被告人が逮捕、勾留されてのちに、警察署内で行われている。しかし、消防職員がこと更に被告人に対する質問の時期を遅らせ、被告人の逮捕、勾留をまつて質問をしたなどの事実は認めがたく、また、警察署内で質問をしたのは、警察署附属の代用監獄に勾留されていた被告人に質問をする関係上、身柄戒護の責を負つていた警察署内でこれを行う必要があつたためであつて、とくに非難されるべき点はなく、所論指摘の前記事情は、被告人の供述の信用性を阻害するに足るものとは考えられない。

また、本件消防調書の内容は、被告人と濱田純子との関係に初まつて、放火の当夜に三五万円を同女に貸与したこと、同女が約束の場所に来ないので同女方に行つたが不在であつたこと、姉のアパートに行つたのではないかと考え附近まで行つてみたところ、見知らぬ男と腕を組んで歩いている同女を見付けてびつくりしたこと、そこで同女に裏切られたと思い頭にきて同女方を燃やしてやろうと決意したこと、直ちに同女方に行き施錠のない出入口から室内に入つたこと、室内には人気はなく、小犬が鳴いており、豆電球が点灯されていたこと、先に来たときに書いた置手紙をポケツトにしまい込み、マツチを取り出して点火し、ベツトの上の掛布団の端に火をつけたこと、一回で布団の生地がチヨロチヨロと燃えはじめ炎は一五センチメートルくらい上つたこと、火事になるかどうか確かめずにすぐガラス戸を閉めて表に出て、自動車を運転して柳原インターチエンジから高速道路に上り自宅に向つたこと、途中西宮インターチエンジで高速道路を降りた際、附近の公衆電話で同女方に電話したところ呼び出し音がしたので火事にならないですんだと思つたこと、帰宅して時計をみると、一〇分くらいすすんでいる時計が二時三〇分ころを指していたこと、同女方から帰宅するのに二五分くらいかかつているので、火をつけたのは二時一〇分前ころではないかと思われること、火事を知つたのは一四日の夕刊を見た時であることなど、本件犯行の動機、状況をほぼ網羅して記載したのち、「女を愛して裏切られた腹いせに布団に火をつけたことは間違いありません。しかし、あんな大火になるとは思いませんでした。誠に申し訳なく思つています。」と結んでいるものであつて、消防法上の質問調書としては、やや逸脱したと思われる点もなくはなく、また、捜査官作成の供述調書のように整然としたものではない。しかし、これらの点は、同調書が、予備知識のない状態で、前記のような短時間内に、被告人の供述するところに従い作成されたものであることにかんがみると、やむを得ないところであつて、かえつてそれが、同調書の信用性を高めていると考えられるのである。

所論は、消防調書記載の被告人の供述中には、客観的事実に符合しない点がある、と主張している。しかし、所論指摘の被告人の供述のうち、(一)「火をつけたのは二時一〇分前ころではなかつたかと思う」との点は、帰宅時刻から逆算して推測供述したものであるが、兵庫警察署係官が午前二時一三分ころに本件火災の通報を受けていることよりすると、右供述部分はほぼ客観的事実に符合するものと認められ、(二)「純子と結婚約束をしていた」との点は、被告人の原審供述、濱田純子の原審証言、濱田勢子の検察官に対する供述調書中に、これに沿う部分があり、(三)掛布団に点火して帰宅の途中、西宮インターチエンジ附近の公衆電話から純子方に電話をしたところ「呼出音がした」との点は、たしかに、時間的な経過からすれば、すでに電話機が燃えている時期にあたるのに、「呼出音がした」というのは、一見不可解な感もなくはない。しかし、当審証人楠本龍男の証言によると、同人は、「火が電話機或いは電話線に入つた時点に電話をかけると、話し中を示す『話音』が聞こえ、その後時期は不明であるが、火災の進行につれ『呼び出し音に似た音』に変る」という事実を、火災の通報を受け火災現場に電話した際に多数経験している事実が認められ、これによれば、右被告人の供述は、客観的事実に符合しないものではないのである。そして、更に、その余の所論にかんがみ被告人の供述内容を検討しても、その供述の信用性を疑わしめるに足るものはなく、その供述内容と原判決挙示のその余の証拠とを対比し検討すると、その供述内容の信用性は十分に肯認し得るところである。

(三)  本件火災の出火場所について

所論は、本件火災の出火場所を原判示濱田純子の居室と認定することには疑問があり、同女の居室を本件火災の出火場所と認定した原判決には、事実認定上の誤りがある、と主張している。

そこで、案ずるに、原判決挙示の証拠によると、本件火災の出火場所を原判示の濱田純子の居室であるとした原判示の事実は優に肯認することができる。すなわち、これらの証拠、ことに司法警察員作成の実況見分調書、原審証人田野育利の証言によると、本件火災による焼失建物のうち出火場所の認定に関係のある建物は、濱田純子方木造平家建トタン葺建物とその東側に隣接する大岡アパート木造二階建トタン葺建物とであるところ、両者の焼燬の状況は、濱田方の居室部分の屋根の小屋組が焼燬して落下しているのに対し、大岡アパートの屋根の小屋組は原形を留めており、また、濱田方居室部分の焼燬の程度は、大岡アパートのそれに比し、とくにはなはだしいことが認められ、これら火災現場の状況に加えて、当時大岡アパートに居住していた米良フジ、土田広が、司法巡査又は司法警察員に対し、本件火災に気付いたとき、濱田方の軒下又は屋根から火が吹き出ているのを目撃したと述べ、また、濱田方北隣に居住していた信川清子が司法巡査に対し、濱田方の居室の方で「パチパチ」と音がし、右居室に接する板の隙間から煙が出て来たと述べていることなどからすると、本件火災の出火場所が濱田方純子の居室であることは明らかである。

所論は、濱田方の小屋組が焼燬して落下していたという前記原審における田野育利の証言は、前記実況見分調書添付の写真と相違しており、また、大岡アパートの屋根が全焼しているのに対し濱田方の屋根が残つているなど、全体としての焼燬の状況は大岡アパートの方がはなはだしいのに、濱田方を出火場所としたのは誤つている、という。しかし、前記実況見分調書に加えて、当審証人楠本龍男の証言、当審で取り調べた兵庫消防署消防士長梅本隆顕作成の実況見分調書を参酌検討すると、たしかに、濱田方建物のうち作業場の部分のトタン屋根が残つていることは認められるが、居室部分の屋根の小屋組、柱は全部焼け落ち、しかも中央附近に向つて倒れていること、濱田方建物の柱と大岡アパートの柱との焼燬の程度を比較すると、その炭火深度は、濱田方の方が大きく、かつ、大岡アパートのそれは東側よりも濱田方に近い西側の方が大きかつたことなどが認められ、これらによると、濱田方居室部分から出た火が大岡アパートに延焼したことは明らかである。

また、所論は、原判決が本件火災当時の風向を「北東」とし、右風向をもつて、濱田純子の居室から出た火が東側の大岡アパートに延焼し、同アパート西側部分の屋根を完全燃焼させた反面、同居室西側の作業場屋根を残した事実を根拠づけるものとしたのは、風向の解釈を誤つたものであり、風向が「北東」というのは、北東から南西に向けて吹く風をいうことからすると、大岡アパート西側の屋根が焼失し、濱田方作業場の屋根が残つたということは、むしろ出火場所が大岡アパートであることを示すものである、という。たしかに、当審で取り調べた神戸海洋気象台長作成の回答書によると、風向の解釈は所論のとおりであり、原判決は風向の解釈を誤つていることになる。しかし、当審証人楠本龍男の証言及び右回答書によると、本件火災当時の風向は、むしろ西とみるべきであり、しかも、当時の風速よりすれば、風が燃え方自体に大きく影響を与えたことはなく、また、大岡アパートの屋根が焼失したのは、同建物が二階建であつたことなど構造上又は消火活動上の原因によるものと認められ、原判決の右誤りは、出火場所の認定を左右するに足るものではない。

(四)  原判示の手段による放火の可能性について

所論は、マツチ一本をもつて掛布団のカバーに点火し独立燃焼に至らせることには疑問があるのに、経験則上可能であるとした原判決の判断は誤つている、と主張している。

そこで、案ずるに、原審証人中島勇、同金井宏美の各証言によると、同証人らにおいて、掛布団のカバーに所携のマツチ一本をすつて点火した、という被告人の自白どおりとして、本件放火が可能かどうかを確かめるため、警察署内の取調室において、類似の布片とマツチを用い、被告人に実験をさせてみたところ、焔の高さが五ないし六センチメートルに燃え上つたとの事実が認められ、この事実により、所論と同旨の原審における弁護人の主張を排斥した原判決の判断に誤りがあるとは認められない。のみならず、当審証人坂本信晴の証言及び同人作成の鑑定書によると、市販されている通常の布団用のカバーであれば、その材質のいかんにかかわらず、マツチ一本をもつて点火燃焼させることが十分可能と認められるのであつて、これによつても、原判決の判断は相当というべきである。

(五)  被告人の帰宅時刻(アリバイ)について

所論は、被告人は、本件火災当日の午前一時三〇分から四〇分ころの間に帰宅していたことは明らかであつて、本件放火をなしうるはずはないのに、右時刻に帰宅した事実を否定した原判決には、事実認定上の誤りがある、というのである。

そこで、案ずるに、原審ならびに当審で取り調べた証拠によると、被告人が所論の時刻に帰宅していなかつたことは明らかである。すなわち、被告人は、原審ならびに当審公判廷において、本件火災の当夜である昭和三八年三月一三日夜から翌一四日にかけての行動のうち、領収書を貰うため、スタンド「ポツポ」で濱田純子の来るのを待つていたが、同女が来なかつたため、附近の新お多福駐車場に預けていた自動車に乗つて、原判示の同女方に行き、誰もいない屋内に入つて領収書を整理し、同女に宛てたメモを書き残して、同女の姉濱田勢子の住む原判示清山荘附近まで行つたところ、女二人、男一人の三人連れと、アベツクのような二人連れとが歩いており、三人連れが勢子の部屋に入るのを見とどけてのち、その場を立ち去つたことまでの事実はこれを認めており、関係証拠によれば、右三人連れは、濱田純子、同勢子と前田勇であり、二人連れは、森本照子と清水京子とであることが明らかである。

ところで、被告人は、その後の行動について、原審ならびに当審公判廷では平野から京橋へ向つて走り、京橋のインターチエンジで阪神高速道路に上り、西宮インターチエンジで降りて、附近の屋台のラーメン屋でラーメンを食べ、帰宅したと供述し、帰宅した時刻について、被告人の父石田明は、原審において、深夜テレビ番組「俺は用心棒」の終了間際の同月一四日午前一時三〇分から四〇分までの間である、と証言し、被告人の母石田美子も原審においてこれに沿う証言をしているのである。

しかし、前記森本照子の司法巡査、司法警察員ならびに検察官に対する供述調書によると、同女は、神戸市生田区北長狭通二丁目にあるスナツク「ポアソール」の経営者であつて、同月一四日午前一時一〇分ころに店を閉め、ホステス清水京子の運転する車に同乗して、清山荘に帰つたのが午前一時二〇分ころであつたが、清山荘附近で被告人を目撃したこと、また、清水京子の司法巡査ならびに司法警察員に対する各供述調書によると、同女も右森本照子と同旨の供述をしていることのほか、帰宅後二分ないし三分して同女が飼犬の散歩のため外に出たところ、清山荘階段上り口に被告人が立つており、同女の顔を見ながら二階に上つて行つたが、約五分くらいして同女が部屋に帰つたころには、被告人は清山荘附近路上に停めた自動車の傍に立つていたこと、以上の事実が認められ、これらの事実によると、被告人は、同日午前一時三〇分ころにはいまだ清山荘附近に居たことが明らかである。そして、清山荘から西宮市内の被告人方まで帰宅する場合に要する時間は、自動車を利用して三〇分ないし三五分ということは原審公判廷において被告人の自認するところであるから、仮りに被告人がその後直ちに帰宅したとしても、石田明が原審において証言する時刻には、到底帰宅しえないことは明らかである。

石田明及び同美子の両名は、検察官に対しては、同月一四日の被告人の帰宅時刻は記憶がない旨の供述をしており、この検察官に対する供述に照らしても、右両名の原審証言は措信しえないものというべきである。所論は、右検察官に対する供述は、欺罔ないし利益の誘導、威迫、困惑等に基づく一方的押し付け等による不任意の疑いのある供述であると主張しているが、右両名を取り調べた検察官である原審証人山下一盛の証言によれば、所論のような事実は認めがたい。

また、所論は、被告人が帰宅途中に立ち寄つたという屋台のラーメン屋の手伝をしていた原審証人横井君子の証言を排斥した原判決の判断を論難しているが、同証言を措信しがたいことは、原判示のとおりであつて、右原判断に誤りはない。

更に、所論は、被告人の自供に従い警察官がした足取り調査の結果によれば、被告人の帰宅時刻は午前一時五五分ころとなつており、これによれば、被告人は原判決の認定した放火時刻の約五分後には帰宅していたという物理的に不可能な結論となる、というのである。

たしかに、司法警察員巡査部長中島勇ほか三名作成の昭和四八年五月一八日付実況見分調書によると、同警察官らが、被告人の自白の真偽を確かめるため、被告人を自動車に同乗させ、新お多福駐車場を出庫してから帰宅するまでの被告人の行動を、被告人の指示に基づき実地に調査したところ、帰宅時刻は午前一時五五分ごろになつたことが認められ、これによれば、被告人は、原判決が本件放火時刻と認定した午前一時五〇分ころの約五分後には、放火現場から約二二キロメートル離れた自宅に帰つていたことになるのである。しかし、右調査結果である帰宅時刻は、被告人が前記清山荘を午前一時二三分ころに出発したことを前提としているものであるところ、前記のとおり被告人は、午前一時三〇分ころには、いまだ清山荘附近に居たことが明らかであるから、右実況見分における被告人の指示説明は、必らずしも事実に即したものとは認めがたく、右調査結果である帰宅時刻は被告人の刑責を左右するに足るものではない、というべきである。

その他所論にかんがみ更に検討しても、被告人が所論の時刻に帰宅していたことを窺わせる証拠はない。

(六)  他に犯人が存在する可能性について

所論は、被告人以外に本件放火の犯人であると疑うに足る人物が存在していると主張している。

しかし、所論指摘の諸点にかんがみ、原審で取り調べた証拠、当審における事実取調の結果を検討しても、所論指摘の各人物が犯人であることを窺わせるに足る証拠は存在しない。

以上のほか、更に記録ならびに原審で取り調べた証拠、当審における事実取調の結果を参酌検討しても、原判決に所論の事実誤認があるものとは認められず、論旨はすべて理由がない。

よつて、刑事訴訟法三九六条、一八一条一項本文により、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 石松竹雄 裁判官 岡次郎 裁判官 久米喜三郎)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例